2021年5月21日金曜日

36 切り火で受験生を送り出し

  幼い頃生家(奈良下市町)の蔵の中の階段に付け木(端に硫黄を塗った15cm四方位の板)が何枚か重ねておいてありました。なんのためかわからず、気になっていたのですが、後になって、マッチがなかった頃、切り火(火打ち石を鉄板に叩いて火花を出す)から火を移すための板とわかりました。勿論子供の頃はすでに家にマッチはありましたが。

 それ以来切り火に興味があって、平成の初め(1988年頃)、世田谷区に住んでいた頃、二子玉川の仏具店で「切り火」の道具(火打ち石と鉄板)を買いました。
その後、子供達が大学受験に家を出るとき、妻が切り火をして送り出しました。
鳶職などが家を出るとき厄払いに奥さんが主人の肩あたりで切り火をしていたのを時代劇で見て真似た、他愛のない厄除けですが。
そのおかげか、子供達は二人共無事に受験ができ、現役で国立大学に入学できました。

 今となっては使い方のわからない道具や材料が、ちょっと昔の家には色々あったと思います。北名古屋市の昭和日常博物館にも、懐かしい物が1.3万点以上あるようです。(令和3年5月21日現在)



2018年4月15日日曜日

35. 謎 野崎参りは誰が踊った?

 謎といっても他愛のない謎ですが、
成長してからもずっと気になていたことがいくつかありました。
たぶん誰でもそのような気になる謎があるのではないでしょうか。

 私の場合は、子供の頃近くの家であった子供会の踊りのことです。
当時、東海林太郎という有名な歌手が歌った「野崎参り」という
歌がありました。「野崎参りは屋形舟で参ろ・・・」の歌です。

 この歌に近所の女の子が振袖姿で日傘を持って踊ったのを記憶しています。その踊り子が誰だっか、ずっと思い出せませんでした。

 それから約50年後中学の同窓会で出会ったMちゃんに、あの踊りは誰だったのと聞くと、私よと言われて驚きかつ安心しました。時々思い出して気になっていたからです。

 もうひとつ、謎がありました。
それは、戦後まもなくの夏、叔母に連れられて、父の従姉妹のS子さんの伊丹の家に行ったときのことです。
その日はカンカン照りで、ガード(阪急の?)下に入ってほっとした位のを覚えていますが、同行した従姉妹達が誰だっかは長く気になっていました。

 それが約65年後の先日いとこ会で8人が集まった時、従姉妹の一人に聞くと、
はっきりは覚えていないが多分、Y子、S子、弟だっただろうとわかり、やっと安心しました。

2013年11月1日金曜日

34.あの星はお父ちゃん

 父がなくなったのは、5才の頃でしたので、おそらくなくなった昭和21年の
春か秋のことと思います。

 ある晴れた夜、母に連れられて歩いて5分ほどの銭湯に行く途中、
母が空を見上げて、ある星を指して「あの星はお父ちゃんやよ」と言いました。

 (家の風呂は昭和22年小学校へ入学後、薪を焚く五右衛門風呂ができました)

 そのあと母が何を言ったかは覚えていませんが、おそらく「見守ってくれて
いるんよ」のような意味の事を言ったのでしょうか。

 成人後、本やドラマなどで、登場人物が星を見上げて「あれはお父さんよ」とか
 「あれはお母さんよ」などと言うような場面を読んだり見たりしましたが、
なんとなく陳腐な言葉のような気がして、あまり心が動きませんでした。

 しかし、73才になった今、夜空にぽつんとひとつだけ星が見えるようなときは、
あの星は本当に父か父の魂かも知れないと思うようになりました。

 母が言ったのは、私を慰める目的だけでなく、母自身が自分に言い聞かせて、
寂しさを打ち払う言葉だったような気がします。
その母の気持を想像すると・・・・ (母は2002年12月なくなりました)


 直接関係はありませんが、人は木像や石像に魂を吹き込むように、
星にも月にも心を送り込むのでしょう。

 道端の石地蔵なども、それを作り、守ってきた人々の心が宿っているので、
決してただの石ではないのですね。

2011年11月6日日曜日

33. 海軍機が母の実家の上で旋回

 (1.生まれた頃のこと)

 成長してから母から聞いた話です。
母の実家は奈良・吉野郡にあり、梨園農家でした。
実家の近くの阿田峰高原に海軍の基地:大和第二飛行場がありました。

 戦争中の昭和17年か18年頃の話(私は幼児の頃)と思いますが、
飛行兵の訓練でしょう、小隊で山地の行軍などをしていたそうです。
あるとき若い飛行兵の小隊が休憩のため母の実家の山の家
(梨園のための家)に、立ち寄ったそうです。
祖母や母の妹達が、お茶やさつまいもなどで接待したのですが、
若い飛行兵の一人がY子おば(母の妹の一人)に惚れたそうです。

 どのような会話があったのかは聞いてませんが、のちに
その飛行兵が軍用機で練習中、実家の上空を旋回して、叔母に挨拶し、
叔母たちが手を振ったそうです。
山地を海軍機が飛ぶこと自体珍しいのに、母の家の上を旋回するのは、
見たかったです。

 その飛行兵は戦争が激しくなって、戦地に送られたようですが、
その後どうなったかは、聞いていません。
叔母はその後近くの町の酒屋さんに嫁ぎ2児を持ちました。

 戦後、当然飛行場は閉鎖されましたが、夏休みに叔父に連れられて
山道を歩き見に行ったことがあります。草原の記憶だけですが、
ジュラルミンや防弾ガラスの破片などを叔父に見せてもらいました。

 戦争は悲劇ですが、軍隊や関連部署が大移動するので、
おもわぬラブロマンスがあちこちで生まれ、大きく運命が変わった
人々も多かったでしょう。


追記:後日2012年(平成24年)9月7日葛城吟行の帰り、阿田峰の
   親戚(母方祖母の実家)の梨園を訪ねました。
   子供の頃遊んでもらったご主人に会い、飛行兵の話を聞きました。
   その飛行兵は終戦直前7月に阿田峰の飛行場を去ったので、
   無事に終戦を迎えたそうです。
   叔母が民放テレビの尋ね人の番組に応募して見つけてもらい、  
   再会したそうです。その話は放映されたのですが、ストーリーが
   脚色されていたので叔母は大変いやがったそうです。
   1996年(平成8年)11月頃のことと思いますが、私は東京に居たためか
   テレビ放送を見れなかったです。(10/28/2012)

32. 電車の上で阪神・淡路大震災

 (a3.マネージャー時代)

  ダイムラー(メルセデス・ベンツ)に勤務中の1995年1月7日、
あの阪神・淡路大震災が起こりました。
あれから16年の今年2011年3月11日、さらに大きな東北大震災が起こり、
いまだにふるさとへ戻れない人が大勢います。

 16年前の1月7日は月曜日で、単身赴任中の帰宅先(奈良)から、
東京の会社へ戻る日でした。
その日は9時半から経理部と情報システム部との会議が予定されていました。

 いつもは、家を朝5時10分位に出て、近鉄高の原駅発5時38分に乗ると
京都発6時15分の新幹線で、9時には六本木の会社に着いています。

 その日はいつものように近鉄京都線に乗って、しばらくすると新田辺
付近で、電車が停まりました。社内アナウンスでは「地震のためしばらく
停車します」とのことで、約2時間後やっと動き出しました。
それが、約25万軒全半壊、約6440人死亡の5時46分の阪神淡路大震災でした。

 10時頃着いたJR京都駅のアナウンスでは、神戸方面の地震のため、
東海道新幹線は名古屋以西停まっており、しばらくお待ち下さい
と言うばかりで、状況がわかりません。
たまたま持っていたラジオで、阪神地区で大地震があり、地域のすべての列車が
止まっているなどを知りました。

 約2時間京都駅で待ちましたが、京阪電車と新幹線名古屋以東は動いている
と知り、京阪電車で大阪に行き、淀屋橋からたタクシーで上六、上六から
近鉄大阪線で名古屋に、名古屋から14時20分の新幹線こだまで東京に戻りました。
日比谷線神谷町から会社へ着いたら夕方5時40分、勿論会議はとっくの昔に
終っていました。
 その後、震災の被害の大きさをニュースなどで知り、
東京へ無事に戻れただけでも幸運と思いました。
あわてていたためその時は、近鉄八木駅経由で名古屋という別のルートを
思いつきませんでした。
神戸の友人の家も半壊し、引越せざるをえなくなりました。

 このとき、固定電話がつながらない一方、携帯電話が比較的
つながりやすいことがわかり、会社では2月から全部門マネージャーに
携帯電話を持たせることになりました。
全フロアに保存食料や水を置くなど、このときの総務部の対応が大変早かった
ことを覚えています。

 この時以来自分でも、外出時には携帯電話やラジオなど通信手段を
持つようになりました。
災害の時、何がどうなっているのかわからない程不安なことはありません。
この時の経験から、種々の災害対策が全国的に実施されたので、
東北大震災でも、生かされたことが多々あったと思います。
(メデイアではあまり報告されていないようですが)

2011年10月19日水曜日

31. 国際会議で俳句会の説明

 (a3.マネージャー時代)

  ダイムラーに勤務のとき、毎年1、2回情報担当部長クラスの国際会議
に出席していましたが、私が部長職を退任することになった1998年5月の会議
(シュツットガルト近郊のホテルPark Gaggenau)では、会議のあと
短い送別会をしてくれました。
そのとき、司会の本社部長Ditchkofsky氏から、日本の俳句会(句会)のやり方を
説明してと要望がありました。

 仲間には以前私が下手な俳句をやっていることを話していたからでしょう。
またヨーロッパやアメリカの教科書にも日本の俳句が紹介されているようです。

そこで、私は、日本の俳句会はまったく民主的な会であると言って、
次のように句会のすすめかたを話しました。(もちろん英語で)

 まず、各出席者が自分の俳句を決められた数(5句とか10句)だけ、
一句ずつ紙の短冊(3X18センチくらい)に無記名で書き、世話人に提出します。

次に、世話人が集めた短冊を提出者が混じるよう10枚ずつ位にまとめます。

まとめた10枚くらいの短冊のセットと空白の清記用紙を、別の選句用紙と共に
各出席者にくばり、それぞれが、短冊から清記用紙に書き写します。

その清記用紙を世話人に集め、順の番号をつけてから、出席者に回覧します。
(人数が多いとコピーをとって小グループに分けて回覧します)

出席者は、回覧されてくる清記用紙の俳句から、自分が良い句と思う句を、
決められた数(5句とか10句)だけ選び、各自の選句用紙に記入します。

回覧と記入が終わったら世話人が、選句用紙を集め、
発表者(披講者)が、選者の名と選者が選んだ俳句を順次読み上げます。

俳句が読まれたらその都度、その句の作者が自分の名前を言います。

全部の選者(出席者)の選句が読み終わったら、世話人あるいは司会者が
司会して出席者が意見、質問などを出し合います。
指導者が出席されていれば、指導者から講評などをしてもらい、終了です。

 このように、句会は無記名でやるため、俳句に対しては、
まったく民主的で公正な評価がされると説明したら、うなづいて聞いて
くれました。
(ただし、俳句結社によって句会のやり方などが違うこともあります)

その時以来、ドイツには1999年に西暦2000年問題対策会議に出張しただけで、ドイツは遠くなりました。

2010年11月20日土曜日

30. 白い花が咲いていたのは?

 (6.高校時代)

  「白い花が咲いていた」で始まる岡本敦郎の歌「白い花の咲く頃」が
流行したのは、昭和25~26年頃(1950年頃)でしたが、その頃実家の近くに
疎開していた、S叔母がよく歌って教えてくれました。

 その後S叔母一家は大阪の美章園に引越しました。
そして私が昭和31年大阪の高校に入学すると、S叔母の家に下宿しました。
叔母といっても当時20才台だったのでS姉ちゃんと呼んでいました。

 S叔母の家は叔父(といっても祖父のいとこですが)と娘3人の4人家族でした。
田舎からいきなり大阪の高校だったので、ずいぶん田舎者に見えたのでしょう。
S叔母は、家で私に歩き方を指導してくれました。
頭の上に本を置き、それを落とさないようにまっすぐ歩くのです。
そのほかにも都会での生活を色々教えてくれ優しい人でした。
叔母の友人の家で大きなスピーカーとアンプで美空ひばりの歌を当時最新の
ハイファイの音で聞かせてもらったこともあります。

 その頃大阪松崎町に「アイリス洋裁店」を開き、オーダーメイドの洋服を
販売するビジネスを立ち上げ順調だったのに、癌におかされ私の大学卒業を
待たずに昭和38年1月に亡くなりました。

今でも、「白い花が咲いていた」の歌を聞くとやさしかった叔母を思い出します。
あの頃家の近くで咲いていた白い花は多分卯の花だったと想い、 

   白い花が咲いていたのは卯の花よ    

という俳句を、所属する俳句誌「運河」に投句したら茨木和生先生が
今年9月号に採って下さいました。
ほんのちょっぴりS叔母にお礼ができたのではと(勝手に)思っていますが、
先生は勿論そんなことはご存知ないはずです。